行幸に際し、地名や社名が付く場合がある。特に、目的地を持った行幸には地名が付くことがある。例えば、
住吉大社に行幸する場合は「住吉行幸」などと呼ばれる。また、
鎌倉時代の書物の中には「
鞍馬御幸」などの表記も伺うことが出来る。
江戸時代に入ると、
慶安4年2月25日(
1651年4月15日)の
後光明天皇による
朝覲行幸以後、文久3年3月11日(
1863年4月28日)の
孝明天皇による
上賀茂神社・
下鴨神社行幸まで行幸は行われなかった(ただし、火災等による御所移動時の行幸は除く。また、
天保8年(
1837年)には
江戸幕府との合意によって
仁孝天皇による朝覲行幸が計画されていたが、対象となる
光格上皇の病気と死去によって実現されなかった)。これについて
高埜利彦は江戸幕府が社会に広く天皇の存在と権威を直接示すことを拒む朝廷統制策(「江戸幕府による行幸禁止政策」)があったとする。これに対して
藤田覚は行幸の衰退・廃絶傾向は鎌倉時代後期から一貫して見られる現象であり、なおかつ財政的な問題もあったことから、それが江戸時代における朝廷側の行幸への消極的な姿勢につながっているとする。明治の「
東京行幸」は行幸と言う言葉を使い、その形態を装っているが、実質的な
東京奠都と言う意味で用いられる。