は、片山は契約していた
ヤマハから強引に許可を得て
WGPに参戦した。これに対して、ヤマハは全面的な支援はせず、
TZ250を貸与するのみで、メカニックもおらず、片山自身がマシンの整備・チューニングも行った。初めてのヨーロッパを一人で転戦するのは大変だったが、ヨーロッパのヤマハ現地法人であるの契約ライダー
ケント・アンダーソン(125ccクラス世界チャンピオン)が面倒見の良い人だったので、片山は彼の助けを借りてヨーロッパを転戦した。片山はWGP第6戦の
ダッチTT(オランダGP)から250ccクラスで参戦。予選で3位になり、決勝レースでも3位を走っていたのだが、リアブレーキのトルクロッドが折れるというトラブルに見舞われてリタイアとなる。参戦開始から3レース目の第8戦スウェーデンGP(
アンダーストープ)で早くも独走でGP初優勝を飾る。スペインGPでは不運に見舞われた。トップで走り、このまま行けばランキング2位は確実と思われた状況だったのだが、ブラインドコーナーの立ち上がり地点に、クラッシュしたマシンの消火活動のためにコースを横切っていた消防士と片山が激突してしまったのだ。片山は転倒し、そのままリタイア。消防は即死という不幸な結果となった。この年はシーズン後半の6戦しか出場しなかったにもかかわらず、ランキング4位を獲得。決勝レースの半分以上は、いったんはトップを走るという活躍を見せた。また、当時、片山はトレードマークとして、
テントウムシのイラストをリアカウルに描いてレースに出場していた
[『グランプリ・ライダー』(p75, p76, p81 - p83, p86)より。]。
当時の
WGPでは、現在のWGPから見ると、各ライダーはかなり強引な走り方をしていた。コーナーでイン側に入ると、アウト側のライダーをどんどん外側に押し出すようなことが当たり前のように行われれていた。アウト側のライダーはそのままではコースアウトしてしまうので、仕方なくスロットルを戻し、イン側のライダーより後方に下がることになる。
金谷秀夫も
ヤーノ・サーリネンとカウリングをぶつけ合いながら走り、そこに
フィル・リードも加わり、三つ巴の戦いになるという状況がごく普通であった。相手がスロットルを戻すまで完全に抑えるという意気込みで各GPライダーは走っていた。
根本健や
河崎裕之もそのような走り方をしていた。片山は
富士スピードウェイで飛ばされたことがある
[『グランプリ・ライダー』(p77, p78)より。]。