1959年、
堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の
松竹芸能)に入社。漫才作家
秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成する。その年の5月に
角座で少年漫才師としてデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかしネタが中学時代の思い出話がメインだった為か人気は次第に衰え、さらに相方の岡田が「辞めたい」と言い出したため1961年にコンビを解消する(岡田がやすしの強固で強引な態度に付いて行けなかったため、けんか別れをしたという説もある)。
相方の廃業後、見兼ねた
横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人も
横山エンタツをもっとも評価しており、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、改めてノックに弟子入りし、師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとすると一緒にライターを出し、出かけるときは靴と靴べらをいっしょに出すなど、弟子修業に励んだという。ある日、やすしの心の変化を見たノックから「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と言われて、ついに「横山やすし」となり、同時に吉本興業に移籍する(秋田實には了解を得ていたらしいが、一説ではやすしの短気な態度と岡田とのけんか別れに秋田がさじを投げ、「破門」に近い意味合いであったとの説もある)。厳しい修行だったが、やすしはノックからの指示を完璧にこなした。