実家は京都・三条木屋町で割旅館『国の家』を経営していたが、後に
倒産した。戦前より
従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属したが、嵐本人が
日活に移り寛プロが閉鎖すると、
新興キネマ(後の
大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(
阿波狸合戦伝説に材をとった『
阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの
喜劇や
二線級の映画であり、
溝口健二の『
祇園の姉妹』のような映画を、と夢見ていた森は失望する。映画監督
森一生にプロポーズされ、婚約したがその後解消。悪評が立ち、居づらくなったため映画女優を引退する。
戦前から戦後間もなくにかけて
大阪を拠点に、
ミスワカナ・玉松一郎の慰問団に参加するなど芸能活動を行っていたが、
1949年の秋に
肺結核と診断され、その後約3年間芸能活動を休止、京都
山科において闘病生活を余儀なくされる(これ以前の
1944年戦地慰問先の南京において、
肺浸潤を患っている)。この頃、「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、復帰作となった『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した
赤木春恵らもそう信じていたらしい。当時すでに結核の特効薬『
ストレプトマイシン』は発見されていたが、非常に高価であり、病気のため無収入の森には治療を受けることは難しいと思われたが、療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンを『
モルモット』として森に投与したことで一命を取り留める。その後、ラジオドラマの仕事をしながら、知人の
裏千家千宗室(14代淡々斎)夫人の秘書として勤務する。