この戦争を予測していたプロイセンは普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスはプロイセンに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。また
北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。その他にも他国が介入しないよう、
ロシア、オーストリア、
イタリア、
イギリスに事前に根回しをしていた。これに対し、フランスは
メキシコ帝国が失敗し、
マクシミリアンが処刑されたことにより、オーストリアからの支援を得られなかった。
周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長
大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。ナポレオン3世は自ら戦地に赴き
セダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、
セダンから首都
パリへの退路を断つ包囲行動にでていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の
9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の
9月4日、第二帝政の終焉とナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。