大阪、
京都で学び、さらに宝暦6年(
1756年)には
江戸に出て本草学者
田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、
漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(
1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には幕府老中の
田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(
1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、
杉田玄白らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する
。