孔子 wikipedia|無料辞書
|地域 = 東洋哲学
|時代 = 中国・春秋時代
|color = #B0C4DE
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|名前 = 孔丘
|研究分野 = 政治哲学、倫理学、他多数
|影響を受けた人物 =
|影響を与えた人物 = 儒者多数
|特記すべき概念 = 仁、君子
|
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◆ 事績
姓は子(この「子」は尊称の「子」ではない。孔子の先祖が商(
殷)の貴族という説があり、商国の姓は子である。)、
氏は孔、
諱は丘、
字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称(子は先生という意味)。
ヨーロッパでは
ラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
紀元前551年(一説には552年)に、
魯国昌平
郷辺境の陬
邑(昌平とは太平を盛んにするという意。邑は村の意)、現在の
山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑
大夫の次男として生まれたとされる。卑賎階級の
巫女の子として生まれたとの異説もある。孔子自身は「貧しくて賎」と語っている(『
論語』)。父は
叔梁?、母は
顔徴在とされるが、『論語』の中には記述がない。
幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して
礼学を修めたとされる。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは一切分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・
周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せている。また、
老子に師事して教えを受けたという説もあるが、これは孔子の礼学に正当性を与えたい後の
儒家と、孔子の名声を利用したい
道家の思惑が一致したことによる捏造である可能性が指摘されている。
身長は9
尺6
寸、1尺を19.6
cmとすれば188cmの長身で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。52歳のとき魯の定公によって中都の宰に取り立てられたと『史記』孔子世家は伝える。さらに、その翌年に
大司寇に就任したとされる。また、政変によって魯の実権を握った
陽虎に誘われ、これに応じようとしたことがある(『論語』陽貨第十七)。
紀元前497年に国政に失望して弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。しかし孔子を受け容れる国は無く、
紀元前483年、69歳の時に魯に帰国した。その後は弟子の育成に専念し、
紀元前479年に73歳で没した。
孔子の人生の大部分は無冠の一学者に過ぎなかったが、
漢代、
司馬遷はその功績を王に値すると評価して『
史記』の中に「
孔子世家」(世家は諸侯王家の歴史)を、またその弟子たちの伝記として「
仲尼弟子列伝」を立てた。
儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
◆ 主張と功績
・
仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現(
論語)
孔子はそれまでの
シャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの
道徳・思想に昇華させた。その根本義は「
仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の
祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と
礼という
家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の
顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の
子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
孔子の死後、
孟子・
荀子といった後継者を出したが、
戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし
前漢・
後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、
毛沢東が発動した
文化大革命においては別の意味で孔子が重要な存在となった。毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と
林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。
◇ 封号
孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。