慶安4年(1651年)の勝成の死後、
勝俊、
勝貞、
勝種と続くが勝成の政策は基本的に踏襲され福山藩は着々と発展を遂げていき、藩成立当初に農民全体の7割以上であった
小作民もほぼ0となった(この間に石高は約3万石増加した)。しかし、
元禄10年(
1697年)勝種の急死により生後間もなくで跡を継いだ5代・勝岑が元禄11年(
1698年)に僅か2歳で死去し水野家は改易となった。これに対し一部の藩士や領民は水野家の存続を求めて福山城に籠城する動きを見せるが、家臣の説得により間もなく静まったという。
水野氏は名門の故で勝成の孫・
水野勝長が
能登国西谷藩1万石に取り立てられ家名は存続された。
水野家の断絶により福山藩領は一時
天領となり幕府から代官三人が派遣された。代官所は城下東端の三吉町に置かれ(三吉陣屋)、福山城の城番は
讃岐国丸亀藩の藩主
京極高或(縫殿)が務めた。同時に幕府は厚木村を除く領内全地域の
検地(元禄検地)を命じ
岡山藩から検地団約2400人が送り込まれた。この結果、水野時代の増産や検地の厳格化、尺度の変更による面積の水増しなどより福山藩の石高は約15万石と査定された。この検地以前の石高は約13万2800石だったので実質的には平均で約10%の増税ということになる。