ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際は
カルテル戦略で乗り切る手腕を見せ、1914年に
第一次世界大戦が始まると、軍需物資供給組織の指導者として適役とみなされるようになる。1915年に父が死んだが、最高顧問だった彼はAEG社の後継会長には就任せず、父の共同経営者にその地位を譲り、特権と「AEG総裁」という肩書きのみを受けた。
こうした実業家としての反面、彼は
資本主義・
物質主義万能の世の中に批判的な見解も持っており、文学によってそれを改善したいと考えていた。ジャーナリストの
マクシミリアン・ハルデン(マックス・ハーデン)を支援してその週刊誌発行を助け、また同誌にたびたび寄稿した。最初の寄稿は1897年の「聞け、
イスラエルよ」という論文で、近代のユダヤ人に対する異議申し立てだった。政治的にも倫理的にも、
ヴィルヘルム2世時代の
ショーヴィニズムに反対の立場だった。友人である作家
ゲアハルト・ハウプトマンを通じて作家のグループに加わり、「時事批判について」「精神の機構について」などの本を出版し、「精神の王国」と表現されるその理想主義的な世界観を表明した。またリベラルな市民の政治参加を目指し、自らも
ドイツ帝国の外交政策、特に
植民地政策に影響を及ぼそうとした。
第一次世界大戦が始まると、彼はドイツが戦争をするには経済的準備が不足していると主張し、産業界に国家の注意を向けさせるために1915年3月まで軍事省軍需物資局長をしていた。この活動はドイツの物資不足を防ぐためとも、公共の福祉を目指す効率的な統制経済を実現するためとも言われる。経済に関するそうした考えを1917年の著書「来るべきことについて」でも表明している。彼はその目的のため大蔵省次官就任を目指したが失敗に終わり、軍事省を去った。のち1918年の終戦までAEG社の軍需物資生産監督に集中し、また戦後の非軍需物資生産の計画を立てていた。一方で1916年には軍事省の会議に出席して、他の産業界代表と共に
ドイツ軍占領下にある
ベルギーの市民を
強制労働のためドイツに連行することを主張し、長年の友人だったマックス・ハーデンと喧嘩別れしている。
大戦が終了し
ヴァイマル共和国が成立すると、ラーテナウの政治への傾斜はさらに大きくなった。彼は経済専門家として
ドイツ民主党(DDP)の共同設立者となり、「産業の社会化に関する委員会」の委員に就任。
連合国との緊張緩和政策や交渉の手腕、そして国際的知名度が注目され、1921年5月に
ヨーゼフ・ヴィルト内閣に再建担当大臣として招聘された。大臣としてこの年10月に
フランスとヴィーズバーデン協定を結び、賠償金の現物による支払いを定めた。直後に大臣を辞したが、
ロンドンや
カンヌで開催されたドイツ政府の外交交渉には参加している。翌1922年1月、
ジェノア会議にドイツ代表として参加するため第二次ヴィルト内閣に外務大臣として招聘された。賠償金問題では成果を得られなかったが、成立間もない
ソビエト連邦と
ラパッロ条約を4月に締結、ドイツ外交の範囲を広げその価値を高めることに成功した(同時に連合国からは疑惑の目で見られた)。この条約は
民族主義者からも歓迎され外相としての評価を高めたが、
共産主義国家との提携は極右の忌むところとなった。