1880年に一家はワルシャワへ転居、ローザはワルシャワ第2女子
ギムナジウムへ通うこととなり、
1887年には優秀な成績で
アビトゥア資格試験に合格してギムナジウムを卒業した。前年の
1886年以降、彼女はポーランドの左翼政党「プロレタリアート」のメンバーとなっている。「プロレタリアート」は1882年に設立されて
ゼネラル・ストライキを組織しはじめていたが、指導者のうちの4人が処刑されて党自体はすでに解散に追い込まれていた。この組織の残党によるいくつかのグループがかろうじて地下で会合を続けており、ローザはこれらのグループの1つに加わり、社会主義的な政治思想を形成するようになったのである。この組織は非合法なものだったため
1889年にはローザにも拘留の危機が迫り、スイスのチューリッヒに亡命。チューリッヒ大学哲学科へ入学し、哲学、歴史学、政治学、経済学、数学を学んだ。同じ時期には
アナトリー・ルナチャルスキーや
レオ・ヨギヘスといった社会主義者たちもこの大学に在籍していた。「Staatswissenschaft(
政治体制の科学)」、中世史、経済学および証券恐慌論などを研究する。
それに対しローザは革命的マルクス主義者としての信条を守り抜き、
1893年には
ポーランド社会党の
国家主義的な方針に反対しレオ・ヨギヘスや(またの名をJulius Karski)らとともに「Sprawa Robotnicza」(「労働者の主張」?)紙を発刊。ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」という
エンゲルスのテーゼに忠実であり、
カウツキーの「民族融合論」に賛同して
レーニンらの唱える社会主義の下での
民族自決権を否定したためである。このことにより、のちにレーニンとのあいだに対立が生じることとなる。