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「ハマノパレード」||オートバイ-master.com [07/06update]|オートバイの情報を無料でお届け!

ハマノパレード wikipedia|無料辞書

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(北海道静内町)
|主 = (株)ホースタジマ
|調 = 坂口正二(栗東)
|績 = 20戦8勝
|金 = 9016万4400円
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ハマノパレード日本競走馬1973年宝塚記念を制したが、その次走高松宮杯で骨折・予後不良となり、翌日屠殺されるという最期が物議を醸した。日本における競走馬の安楽死システムが整備される契機を作った馬とされている。

◆ 戦績
「最強世代」のひとつとされる1972年クラシック世代の1頭。小柄で華奢な馬であったが、入厩当初から調教で軽快な動きを見せ、その素質はデビュー前から高く評価されていた『サラブレッド101頭の死に方』279頁。。しかし骨膜炎で初出走予定が1ヶ月遅れた影響もあり、初勝利までには年を跨いでの4戦を要した。その後、2月までに特別戦を2勝してクラシックこの年は関東で馬インフルエンザが発生し、1、2月の東京開催が中止、春のクラシック開催が順延されていた。に向かおうとしたが、皐月賞への前哨戦では9着と精彩を欠く。さらに休みなく出走を続けていたことにより、東京優駿(日本ダービー)を目指しての京都4歳特別出走時には、当初430kgあった馬体重が410kgまで減少していた。このため陣営はクラシックを断念、ハマノパレードは休養に入った。
この休養が功を奏し、復帰初戦から700万下条件戦、オープン戦を連勝。勢いに乗り、天皇賞優勝馬ヤマニンウエーブ参戦の阪神大賞典にも優勝し、重賞を初制覇。翌年に入ってからも好調は続き、重馬場に脚を取られた日経新春杯こそ6着と敗れたものの、次走の京都記念では菊花賞優勝馬ニホンピロムーテーを退け重賞2勝目。有力馬の1頭として大目標の天皇賞(春)に出走したが、最後の直線で外に斜行する悪癖が出たことも重なり、8着に敗れた。優勝は「無冠の貴公子」と呼ばれていた同期のタイテエムだった。
次走は宝塚記念に出走。得意の中距離戦ながら4番人気という評価だったが、スタートからハイペースで後続を引き離し、最後の直線では2番手につけたタイテエムに一瞬馬体を併せられるが、先頭で粘り切り、芝2200メートル2分12秒7の日本レコードタイムで優勝した。

◇ 予後不良、屠殺
続いてハマノパレードは高松宮杯に進んだ。このレースでも1番人気の天皇賞馬・ベルワイドを相手に、宝塚記念と同様のレース運びで先頭を進んでいた。しかし最後の直線に入り、2番手のタケデンバードを突き放し逃げ切り勝利を収めるかと思われた瞬間、ハマノパレードは前のめりに転倒した。前脚を骨折しており、馬運車に収容されたその場で予後不良の診断が下る致命傷であった。
現在であれば予後不良の診断が下された馬は、薬物投与による安楽死の処置を執られることが原則となっているが、ハマノパレードにそうした対応は行われず、痛みでもがき苦しむ状態のまま食肉業者に売却され、翌朝になって屠殺された青木 13頁。
その馬肉が中京競馬場に近い名古屋地区の食肉市場に「さくら肉『本日絞め』400キログラム」という品目で売りに出されていたことが食肉業者の間で噂として拡がり、やがてこの事実がスポーツニッポンで記事として取り上げられ、大きな反響を呼んだ青木 14頁。
その後、時代の変遷に伴う動物愛護意識の浸透と共に、重度の故障を発症した競走馬については屠殺が原則的に行われなくなり、予後不良の診断が下ってその後の必要な諸手続きが完了次第、即刻薬殺されるシステムが整備されていった。当時、記事を執筆した船曳彦之丞(JRA騎手・船曳文士の父)は、「ハマノパレードが犠牲になったからこそ。あの問題提起がなかったら、旧態依然のまま出来事はベールに包まれていたと思う」と語っている

◆ 競走成績