ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案した
シュリーフェン・プランは、フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の
塹壕戦に陥ったことで挫折した。国内で独裁的地位を固めた軍部は、この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、いわゆる
エーリヒ・ルーデンドルフの提唱した「総力戦」体制の確立に突き進んだ。これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。
1917年10月に勃発した
ロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的な
ストライキが行われた。
1918年3月からの
西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には
連合軍の反撃により逆に戦線を突破され始めた。ドイツの敗北が決定的となったことで、参謀本部次長ルーデンドルフは、敗戦処理に当たらせることとロシア革命の二の舞を防ぐことを目的として、当時ドイツ最大の労働者政党であった
社会民主党(SPD)を中心とする政府の樹立を主導した。首相には自由主義者の
マックス・フォン・バーデン公が就任した。1918年10月に始まった休戦交渉は、連合国の提示した無条件降伏、カイザーの退位という厳しい条件に対して、軍部は少しでも有利な条件を引き出そうと、一部は戦争の継続さえ主張したため、遅々として進まなかった。一向に訪れない平和への希求から、また帝政の維持、戦争の継続に固執する軍部に対してドイツ国民は実力行使へと動いた。
1918年
10月29日、
ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ
大洋艦隊の水兵たちは、ドイツ海軍司令部が出したイギリス海軍への自殺的な特攻作戦(「提督たちの反乱」)の出撃命令を拒絶し、反乱を起こした。
11月3日、この出撃命令に抗議してキール軍港の水兵・兵士によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、
11月4日には労働者・兵士
レーテ(評議会)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した。
11月7日から始まったバイエルン革命(後述 ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王
ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、
11月8日までにドイツ北部へ、
11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時の
ソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、
ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。
11月10日、社会民主党、
独立社会民主党(USPD)、民主党からなる新政府が樹立される一方、ベルリンの労兵レーテ大会では労兵レーテを唯一の執権機関とすること、社会主義共和国を目標とすることが宣言され、二重権力状態が浮き彫りとなった。同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、参謀本部の
ヴィルヘルム・グレーナー将軍から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束した協定が結ばれた(エーベルト・グレーナー協定)。これより軍部は、国軍の多くの部隊が革命派になるか、雲散霧消してしまったため、
ユンカーや重工業資本家などの支援を受けて、
フライコール(Freikorps)と呼ばれる右翼・国家主義者から成る反革命義勇軍の創設に着手した。