14歳のとき、
弁護士事務所に雇われ、1884年に弁護士試験に合格した。非国教会の埋葬権を獲得する訴訟に勝利し名をあげる。1888年、
メソジスト派の農家の出身であったマーガレット・オーウェンと結婚、二男三女をもうける。二人の結婚生活は決して幸福とは言い難く、1941年にマーガレットが死去すると、2年後の1943年に、1913年から彼の秘書だった
フランシス・ルイーズ・スティーブンソンと再婚した。また、ロイド・ジョージは他の女性とも艶聞が絶えず、問題をたびたび巻き起こしていた。
1905年12月、
ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党内閣が成立。ロイド・ジョージは商業相(商業院総裁)として入閣した。商業相として商船法、特許法、ロンドン港法など重要法案成立を実現させた。
1908年、キャンベル=バナマンが病気のため辞任し、後任首相に蔵相の
ハーバート・ヘンリー・アスキスが就任すると、ロイド・ジョージはアスキスの後任の蔵相となった。当時、
ドイツ帝国皇帝
ヴィルヘルム2世の海軍政策に対抗し、イギリス海軍も艦隊増強策を取っていたが、そのため社会政策にあてる財源を圧迫していた。蔵相となったロイド・ジョージは、「人民予算」とよばれる富裕層からの増税による予算案を策定し、保守党と激突する。予算案は保守党が多数を占める上院で異例の否決を見た(慣習によって上院は予算に介入することはなかった)。アスキス首相は下院を解散し総選挙を実施。ロイド・ジョージはアスキス首相をよく補佐し、選挙戦を通じて保守党・貴族・富裕層を舌鋒鋭く攻撃し、イギリス政界最大の雄弁家の一人と目されるに至った。選挙は自由党の勝利に終わり、
1911年には上院の権限を縮小する
議会法も通過した。
第一次世界大戦開戦まではドイツの帝国主義に対して警告を発していたが、イギリスは
孤立主義を守るべきと考えていた。しかし、
1914年に開戦を見ると、直後に蔵相として戦時予算を組み、その主張も主戦論へと変わっていった。
1915年、自由党と保守党の
連立内閣が成立し、軍需相に転ずる。翌1916年陸相の
ホレイショ・キッチナー元帥がロシアを訪問する途中に座乗していた軍艦が触雷して死亡したため、後任の陸相に就任した。ロイド・ジョージはこの時点で、軍部の西部戦線に主力を置く方針に反対であり、なおかつアスキス首相の戦争指導にも懐疑的であった。ロイド・ジョージは自らを長とする軍事委員会の設置を目論み、アスキスの棚上げを図った。このような経緯でアスキスとは決定的に対立し、アスキスは1916年12月5日に辞任した。代わって12月7日、ロイド・ジョージはついに首相の座についた。