主要なメンバーが逮捕、保護拘禁されていたためにスパルタクス書簡の維持と配布という危険な仕事は、
レオ・ヨギヘスの受け持つところとなった。組織者・編集者として非凡な才能を発揮したヨギヘスは警察の追及をかわし冊子の販売部数を伸ばしつつ、グループの連絡を保っていた。寄稿の多くはルクセンブルクで他にメーリング、リープクネヒト、
パウル・レヴィ、J・カルスキー、エルンスト・マイヤーなどが他の論文や記事を書いている。
ローザ・ルクセンブルクはスパルタクス団唯一の政治理論家であり、戦時中に「ユニウス」という
ペンネームで著した
パンフレットの中で、
プロレタリアートの権力獲得を目的とした労働者による祖国防衛というプログラムを展開していた。しかし一方、
ブルジョア国家の起こした戦争はどんなものであれ支持することはできない、とも考えていた。
帝国主義の時代では全ての戦争が大
資本の競争から起こるのであり、ドイツが勝とうが負けようが労働者にとっては有害である。労働者は民族戦争を拒否し、
革命により
権力を握ることによってのみ救われる。1914年の戦時公債を承認したときに
第二インターナショナルは死んだため、労働者階級の新しい独自の行動は戦時公債の拒否とともに始めることができる、と彼女は主張した。
権力奪取の方法、革命後の組織についてローザはなにも明確なことは書いていない。彼女は
ボルシェヴィキのような「党の独裁」というやり方へのもっとも厳しい批判者であり、
アナルコ・サンディカリズム的な大衆の自然発生的な行動に対する信頼があるのみだった。
1918年11月の
ドイツ革命勃発で解放されたスパルタクス団の指導者には、何の準備もなかったということになる。
1917年の
ロシア革命をスパルタクス団は熱烈に歓迎し、世界大戦は
世界革命に転化し始めた、と判断した。スパルタクス書簡は大衆に革命をうながしたが、この宣伝は見るべき効果を上げなかった。
1918年1月の
ストライキ集会に代表者を送ることもできず、一般の労働者の気分は「平和と民主主義」のスローガンを離れなかった。
10月7日ベルリンでスパルタクスの秘密会議が開かれ、労働者と兵士に対する呼びかけをし、
社会主義をドイツで行うようにと訴えた。ところが
11月4日キール軍港の水兵たちの蜂起からドイツ革命が始まり、スパルタクス団は不意をつかれた。
11月10日に多数派社会民主党と独立社会民主党の連合が成立し、スパルタクスは反対派として党の外にとどまり、ベルリンの独立社会民主党内に形成されていた急進左派の「
革命的オプロイテ」() と接近した。
ヴァイマール共和国の政府への反対・煽動が続けられ、
12月6日にはベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。
12月30日ベルリンでスパルタクス団の党大会が招集され、独立社会民主党から正式に分離し、「ドイツ共産党」 (Kommunistische Partei Deutschlands) という名称の新党が成立した。